坂本龍馬の勇払秘話


ここでは坂本龍馬の蝦夷地開発論に至った背景と土佐藩の北海道移住の足跡をたどりながら、坂本龍馬の構想、思考法を学び記したい。
これが平成の龍馬誕生のきっかけとなれば幸いである。

四国の土佐人が蝦夷地に関心を示したのは安政年間からであった。
龍馬と勇払秘話
1957年(安政4年)の改正下田条約によって、函館、下田にアメリカ領事館が設置されると幕府は奉行の任命を行った。
土佐藩でも同年5月、藩主山内容堂の命を受け、手島八助らが函館視察をした。
また、1863年(文久3年)には龍馬の命で勤王党(脱藩志士)の北添佶磨(後に池田屋事変で憤死)らが北方視察をし、北添らの視察知識は坂本龍馬に引き継がれ、蝦夷開発論に発展していった。
坂本龍馬は京阪地区の浪士を集め、蝦夷移住を計画したが、これは実施直前に池田屋騒動があって計画だけに終わってしまった。
勝海舟の日記によると、龍馬は蝦夷地におもむいて脱藩浪士で「海外に志のある者」を海援隊士とし、北方開拓や貿易を行い、海軍技術者の養成に努めようと計画を進めていたという。また、「池田屋の変で多くの同志倒れ、蝦夷地開拓が途絶した」という内容の資料もある。しかし、龍馬は諦めることなく、死の数日前の手紙に「小弟は蝦夷に渡らんとせし頃より、新国を開き候は、積年の思い、一世の思い出に候」と書いている。
土佐藩が実際に蝦夷地開拓をしたのは、明治2年7月、北海道開拓方策を全国の各省藩士族、寺院などに分領支配させることを決めてからのことである。
明治2年7月、政府直属の開拓使が設置されたが、新政府は旧幕軍の征討、反政府勢力の鎮圧、さらに集権体制確立のため諸機構整備などに莫大な費用を投じており、財政は極度の困窮状態にあった。
そこで本道の内20郡を開拓使が受け持ち、あとは全国の諸藩などに分領して支配させることにした。
土佐藩はこれに応じて願書を提出し、同年8月には勇払郡、千歳郡、夕張郡の支配が認められたので、9月には土佐藩の岸本円蔵らが来道し、勇払、千歳の2郡を請受し、11月に高知へ戻り、三郡絵図に説明書を付け、その詳細を報告している。彼は、勇払などの様子を「四分通りは砂漠の草野で、農耕には適さず、牛馬を放すべき」といい、また「木材、鉱物資源が豊富なので開拓の将来に期待する。そして、漁場の請負人はアイヌを苦役することあたかも牛馬の如く、彼らは山海漁猟の利だけに終始し、開墾などまったくおぼつかない状態である。」と述べている。
また、岸本と同行した北代忠吉も、蝦夷地からの書簡において「土人を苦役すること、南米人の黒奴に相勝っている。蝦夷地を真に開拓するには、第一に土人の愛育が必要であり、土人と一体となって行わなければならない」と記した。
このように、土佐藩は明治2年において、すでにこうしたアイヌ問題を真剣に考えた卓越した考え方をもっていたのである。
土佐藩は同郷の岩村通俊判官らを通じ、函館の紅屋清兵衛を名代に商社を設ける一方、勇払海岸には船舶の入港する場所が無く、しかも遠浅のため洋中停泊も危険であることから、政府に室蘭港支配権も要請したが、仙台藩の石川源太に握られていた。
使用港を物色したが、適地はすべて他の支配地となっていたため、結局は函館港を一部使用することになった。
土佐藩は本道開拓にあたって北海道開拓志望者募集を布告し、役員十数名と大工、人足、農夫など60人程の単身者を決定した。この開拓を希望した者の多くは、開拓の期間を3年位と見込み、その後は家族など引き連れて永住する考えを持っていた。
土佐藩はほかの諸藩に比べ、本道開拓には坂本龍馬らの意志が強くあって、異常なほどの意気込みを持っており、当初は農夫2000人を送り込もうとしたほどであった。こうして明治3年5月、開拓使70余名は高知浦戸港から外国帆船で出発したが、途中輸送船の遭難などもあって相当数の物資が北海の海に飲まれる不幸もあり、同年6月には函館に上陸し、勇払に向かった。
また、開拓予算などもあらかじめ見込み、これを蝦夷地に捨て、これは天朝へのご奉公であると考えていたから、漁場などの税金を目当てに支配地を申請する藩を責めるところさえあった。
彼らは来道にあたって、米、味噌はもちろん、茶碗、箸、衣服、火箸など日用品一切を国元から持参しており、農夫は最上級の者を連れて来たほか、大工、人足などを引き連れてきていることからも熱意の程がよくわかる。
開墾地の主点は千歳付近に置き、到着早々の6月にソバなどを植えている。
また、勇払は支配地の行政、警備、治安基地として、ここに役員の主力を置き、勇払開墾所には鉄砲数十丁をはじめ、相当量の弾薬、ほかの武器などを装備した。高知藩がとった開拓施策はもっぱら農業振興であり、農民には日々米一升などの手当を支給し、明治4年には移民家族をもって開墾し、これらの農民には日々食料を支給し、作物、家なども与え、保護していく考えであった。
一方、漁業についてはあまり干渉せず、漁場持に一切をまかせ、作配人、手代、通詞、番人などの漁場経営の幹部には多額の給料と米を支給し、その経営管理にあたらせた。
アイヌ政策については、各部落の役土人に年中給与を支給し、アイヌ部落での自治管理の一部を行わせたほか、米、塩、酒なども相当量与え、アイヌ保護にも努めたのである。
当時の漁場などの諸品を見ると、土佐米、土佐酒、土佐茶碗などの土佐製品が相当数入っているので、当地方住民は精神的にも、物質的にも土佐人の影響を強く受けていたことは明らかであった。
しかしながら、実際には本道を開拓してみると思うようにはいかず、幾多の困難に遭遇した。当初2000人の農夫を引き連れて来る予定であったが、これを引き延ばしたことを幸いであったとさえ言われた。
明治4年8月に黒田清隆開拓次官は本道経営の一大改革を建議し、全道を開拓使の支配下に置くこととなり、土佐藩の勇払ほか二郡の支配も取り消され、ほとんどが郷里へ帰っていった。
しかし、高知県における北海道開拓の意志は終わったわけではなかった。
明治中期より坂本一族をはじめ高知県民の樺戸郡浦臼村の開拓、さらに北見の北光社の開拓事業にそれぞれ多くの移住者を送り、成功を収めている。
勇払地方はこれらのための先駆的な役割を果たしたものであった。

 もし、運命のいたずらがあったなら、この苫小牧(勇払)に坂本龍馬が暮らし、ふるさとに坂本龍馬の志が受け継がれ、大人たちは龍馬に羞じない生き様を求め、子供たちは平成の龍馬を目指し、世界に羽ばたくことを夢見たことだろう。苫小牧は「坂本龍馬の幻の故郷」となってしまったが、混迷の1999年を担う「第二の龍馬」の誕生を勇払で待ちたい。


資料:目で見る苫小牧の百年原稿(苫小牧市立中央図書館所蔵)
   ふるさと百話(堀江敏夫著)(苫小牧市立中央図書館所蔵)
   北海道龍馬会資料
   高知県立龍馬記念館資料
   高知県 龍馬歴史館資料

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